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耐震・制震(制振)・免震構造の変遷

免震構造の歴史

「地震の揺れから逃れたい」

「地震の揺れから逃れたい」と思うのは人間の本能のようで、中国の後漢時代(136年頃)には既に張衡(チャンハン)という人が地震計を作ったという話があります。

カリフォルニア大学のケーリー教授によれば、1909年英国の医者カランタリエントが建物の下にタルクという石を敷き、地盤から建物を絶縁する方法を提案したのが世界初の免震構造となっています。

一方、ニューヨーク州立大学のバックル教授は、ドイツ人のヤコブ・ベクトールドが地面に穴を掘り、これに玉石を入れてその上に建物を建てる方法を、1906年のサンフランシスコ大地震の1ヶ月後にドイツから米国に特許出願しているのを発見しています。

​​画像:張衡が発明した地動儀(1953年中国の切手)

張衡が発明した地動儀(1953年中国の切手)

日本初の免震構造

日本では1891年の濃尾地震(M8.4)の半年前に、丸太を二方向に何段も敷き並べその上に建物を建てると「地震の際大振動を受けざる構造」と題した講演を建築家の河合浩蔵が行い、その速記録が残っています。

明確な記録はありませんが、1876年から94年まで日本に滞在した元鉱山士で日本の地震学の父といわれるジョンミルンが少なくとも二つの免震建築を建てていたようで、これが日本初の免震構造ではないかと考えられています。木造建築の四隅の柱の下に鋳鉄の玉を挟んだもので、地震の遅い動きは伝わったが急激な動きは伝わらなかったそうです。

画像:河合浩蔵(かわい こうぞう 1985-1934)
出典-建築學會発行、「建築雑誌1934年11月号」

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日本における耐震構造・免震構造の変遷

耐震設計法の誕生

近代の耐震構造発展の契機は1906年のサンフランシスコ大地震(M8.3)で、日本から大森房吉(地震学)、佐野利器(建築構造)両博士が現地調査を行いました。

佐野利器はラーメン式鉄骨造と鉄筋コンクリート造が耐震的に優れていると報告しています。また、1915年に佐野は「家屋耐震構造論」を発表し、耐震設計法として「震度法」を提案しています。

1923年の関東大地震(M7.9)を契機として、翌1924年、市街地建築物法に「水平震度0.1」が取り入れられ、世界初の耐震設計法が誕生します。

関東大地震の後、鬼頭健三郎、山下興家、中村太郎、岡隆一などの建築構造研究家によって多くの免震構造が提案されます。原理的に現在の免震・制震構造のほとんどが提案されましたが、当時は第二次世界大戦前で、実際に建設されたのは岡隆一によるものだけでした。

​​画像:佐野利器(さの としかた 1880-1956)
出典-日本建築学会発行、「建築雑誌1956年12月号」

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剛構造か柔構造か

昭和初期の1930年前後に、剛構造がよいか柔構造がよいかという「柔剛論争」が発生し、柔構造を主張した海軍の眞島健三郎は「耐震家屋構造」という、今でいうフレキシブルストーリーを提案しています。しかし、地震動そのものに対する基本的データが不足した状況下で、論争の結末がはっきりしないまま剛構造が主流になり、第二次大戦に突入します。

画像:関東大震災で壊滅的な損傷を受けた旧両国国技館
出典-墨田区立図書館収蔵『帝都大震災の慘狀 兩國國技舘』

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戦後の耐震構造の流れ

耐震設計法から新耐震設計法まで

終戦前の1944年、資材節約のために終局強度を基本とする耐震設計法が臨時制定されます。その考えを引き継いで1950年の建築基準法制定時に材料の許容応力度が2倍に引き上げられ、それに伴い設計水平変震度が0.1から0.2に引き上げられます。このとき構造設計に短期、長期という考え方が導入されます。

戦前は低層で壁が多く剛性の高い建物がほとんどでしたが、戦後は開口部が大きく剛性の低い建物が増加します。その結果、中・低層建物では地震時の揺れが地盤の揺れの2〜3倍に増幅されるようになりましたが、静的設計水平震度0.2の時代がずっと続きます。

画像:1933年の銀座
出典-博文館「大東京写真案内」

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新耐震設計法の施行

関東大地震以降、北丹後地震(1927年、M7.5)、三陸(1933年、M8.3)、鳥取(1943年、M7.4)、東南海(1944年、M8.0)、南海(1946年、M8.1)、1948年の福井地震(M7.8)と大地震が続けて発生しましたが、その後の約半世紀間は大都市近傍で激しい地震は発生しませんでした。

1968年に発生した十勝沖地震(M7.9)で、建築基準法に基づいて設計された鉄筋コンクリート造の建物が大被害を受け、建築学会の設計基準が改正されます。その後の様々な耐震研究の成果を取り込み、1981年に建築基準法が改正され、現在の「新耐震設計法」が施行されるようになりました。

「新耐震設計法」は「二段階設計法」を採用しています。第一段階は、建物が存続する間に遭遇の可能性がある中程度の地震には「建物の無損傷」を目標とし、第二段階では関東大地震のような非常に強い地震動に対して人命確保を第一とし「建物の倒壊防止」を目標としています。

画像:福井地震直後の大和百貨店
出典-毎日新聞社「サン写真新聞(1948年6月30日版)」

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耐震構造と免震・制震構造

免震・制震構造普及のための法整備

耐震構造は「建物の荷重支持」と「建物に入力した地震エネルギー吸収」の二つの働きすべてを建物構造体に委ねます。

これに対し免震構造は「地震の入力エネルギーを免震装置で吸収し、柱や梁をエネルギー吸収の役割から開放しよう」とするものです。

また制震構造は「建物に入力した地震エネルギーを強力なエネルギー吸収装置(制震装置)ですばやく消費して、柱や梁によるエネルギー吸収を不要にしよう」とするものです。

免震構造は1995年の阪神淡路大地震以降、急速に拡大しました。多くはニュージーランドで実用化された積層ゴム免震装置を使用したものでした。当時、免震構造を建設するには日本建築センターの評定と建設大臣の認定を受ける必要があり、これらをクリアするのに3ヶ月程度の時間を必要としました。

その後様々なタイプの免震装置が開発・実用化されます。その結果、2001年4月から免震構造の普及を目的として認定された免震装置(認定免震部材)を使用することにより、一定の条件を満たせば評定や大臣認定を必要とせず、通常の建築確認手続きで免震建物の建設が可能になりました。

画像:阪神淡路大震災(中山手町 にしむら珈琲店前)
著者-松岡明芳(クリエイティブコモンズ

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免震・制震構造今後の課題

建物の機能維持

2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0)では、被災地域に多くの免震・制震建物がありました。その中には、減衰装置や周辺部分に軽微な破損が生じたものが少数ありましたが、余震の中でも免震機能は維持され、その効果を十分に発揮しました。

免震構造は、役所、病院、学校、事務所、集合住宅など様々な用途で用いられています。今回判明したことは、インフラが断絶した環境の中で、免震・制震建物がその機能・役割を維持し続けるためには、建物の健全性維持のみならず、エネルギー及び通信手段の確保、さらには地域の防災拠点として役割を果たすべき建築物として、薬品、食料、防寒具、仮設トイレ等の備蓄が必要であったことです。

​​画像:東北地方太平洋沖地震に遭遇した仙台市の免震マンション

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長周期地動震対策

今回の地震では、固有周期の長い超高層ビルが長時間にわたり大きく揺れ続けました。新宿の超高層ビルでは13分もの間、最大で1メートルを越す揺れが続いたと報告されています。

地震に強いとされていた超高層ビルでしたが、地震動の長周期成分と共振して建物は大きく揺れました。このような現象の可能性は指摘されていましたが、比較的設計の古い超高層ビルはその対策が十分なされていません。

今後、新たに計画される超高層建物はもちろんのこと、既存の超高層建物についても、減衰装置の付加による「制震改修」などで長周期地震動に対する揺れ低減対策が望まれます。

​​画像:新宿の超高層建物群

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